野中広務という人

野中広務という人

含羞の人だった。

70歳を過ぎて、権力の階段を一気に駆け上がっていた4年間、この点だけは変わらなかった。だからこそ、愛想に欠ける信州人の僕でも、最初から受け入れてもらえたように思う。

家族想いの人だった。

定期的に届く娘さんからの手紙を、一番大切にしていた。ときどき照れ臭そうに見せてくれた。どんな政治家の発言やマスコミの批判よりも、娘さんの言葉を重く真摯に受け止めていた。

正直な人だった。

議員宿舎の部屋で「Nステーション」を観ながら行っていた懇談で、記者が核心を突く質問を投げかけると、NOの場合は「そうすか」、YESの場合は「・・・」というのが、定番だった。

変幻自在な人だった。

政治は夜に動く。夜聞いた話が翌朝真逆の結論になっていたことが少なくなかった。だから、官房長官時代は毎晩、あの人が風呂に入って寝る直前に電話して話をすることを日課とした。

肉が好きな人だった。

魚を綺麗に食べないことで母親に叩かれたという思い出を度々話していた。だからではないだろうが、70を超す人がよくこれだけと思うほどペロリとステーキを平らげる健啖家だった。

酒を飲まない人だった。

30代の町長時代、職員が公金を酒代に横領した事件のけじめを示すために酒を止め、以来飲まなくなったということだった。宴席では、専ら、お湯のレモン割りをちびちび飲んでいた。

記者を尊重する人だった。

京都府政時代に野党を長く経験したせいか、社会における反権力の役割に理解があった。そして、報道各社の経営幹部より若い担当記者を優先することを、常に意識して対応していた。

直言居士を貫く人だった。

どんな相手に対しても、良いものは良い、悪いものは悪い、と言うことが信条だった。必然的にこちらも、「あんたは、どう思う」と聞かれて答えられるかどうかが、日々勝負だった。

差別を胸に刻み続けた人だった。

被差別部落と言われる地域の育ちであることを、政治経歴の節目で公言した。同時に、そのことが未だ、自分の家族や同様の境遇にある人たちに影を落とすことに心を痛めていた。

政治を天職とした人だった。

突き詰めれば、どんな境遇に生まれ育ってもチャンスが平等に開かれている社会を目指していた。そして、そのためにあらゆる手段を尽くすことが政治だ、と考えていたように思う。

野中広務という人

政界を引退して15年、野中さんが亡くなられたという訃報に接し、番記者として多くの時間を共にした頃を心静かに振り返っています。自らも政治家を志す者として、生前の野中さんの言葉に心耳を澄まし、未来へ進む原動力にしたいと思います。そして、いつかは、政治家・野中広務の評伝を書き記すことができればと思っています。


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