きょう8月15日は、戦没者を追悼し、平和を祈念する日です。少なくとも僕は、例年に比べて 静かに、この日を迎えた気がします。昨年が戦後70年の節目だったことや、リオ五輪で日本選手が目覚ましい活躍を見せていることもありますが、そうさせた最も大きな要因は、1週間前に 天皇陛下が生前退位の意向がにじむ「お気持ち」を表明されたことでした。
全国戦没者追悼式に出席された両陛下(時事通信) – Yahoo!ニュース
8月8日午後3時から放送された、天皇陛下のビデオメッセージは、「平成の玉音放送」と形容されました。実際、大勢の国民がどこか重ね合わせて生中継やその後のニュースを観たはずです。 天皇陛下が「私が個人として、これまでに考えてきたことを話したい」として最も強調されたのは、 いまの憲法が定めた「象徴天皇」としての自負だったように思います。僕はそう受け止めました。 メッセージの中で「象徴」という言葉が8回も使われていることに、思いの強さが表れています。 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とした憲法第1条。そこに定められた役割が今こそ大切なものであることを、 果たしてどこまで理解していたるでしょうか。儀礼的な役割に過ぎないと重要視してこなかった人 たちも、戦前の天皇制に近づけようとしている人たちも、「象徴天皇」の重さを十分に理解して いなかったのではないでしょうか。「次第に進む身体の衰えを考慮するとき、これまでのように全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが難しくなるのではないかと案じています」という言葉に、僕自身もハッとさせられました。
戦没者追悼式の「お言葉」も、「象徴天皇」としての国事行為の1つです。戦後70年の昨年は、 いわゆる安倍談話をめぐって海外から厳しい視線が注がれる中で、「先の大戦に対する深い反省 とともに」という表現を初めて使い、戦争の惨禍が繰り返されないことを切に願う気持ちを表明されました。「天皇は、国政に関する機能を有しない」とした憲法第4条の下、神経を研ぎ澄ませギリギリの役割を果たそうとされたのだろうと、改めて思います。こうした役割は、日本の平和と繁栄のために不可欠なものであり、高齢を理由に縮小すべきではないし、摂政が代行することもできないと、天皇陛下は「お気持ち」に滲ませています。
退位に関して、多くの識者がさまざまな角度から文章を書いていますが、強く印象に残るのは、吉崎達彦さんがブログで記した一節です。少し長くなりますが、引用します。 「本日のお言葉は、皇太子殿下に向けて、覚悟を迫る内容ではないかと感じました。自分はこんな風に象徴天皇を務めてきたけれど、お前はどうするつもりなのだ、という問いかけがあるのでしょう。たぶん皇太子殿下は、いまの日本国内で最も痛切に今日のお言葉を受け止めておられるはずです」。
この文章に引かれたのは、僕がこの春に父親を亡くし、新盆と重なったことと無縁でないと思い ます。年老いた父親からは、繰り返し本当に覚悟があるのかどうか迫られていたような気がします。 国民の1人として「象徴天皇」の重さを受け止めるとともに、先代の遺志を引き継いで屋台骨を背負う世代として責任を果たしていく覚悟です。
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