リベラリストであること

松本市長選挙で敗れてから、ちょうど半年が経ちました。自転車で街を回り、市議会に足を運び、松本の課題と可能性を見つめ直す日々を送りながら、参議院選挙で改憲勢力が3分の2の議席を占めると、天皇陛下が生前退位の意向を表明されるという、この夏の張り詰めた国政の動きを、長年培った政治記者の尺度で見てきました。そして、先週末、振り返れば日本の大きな分岐点となった2000年に政治生命を失った、加藤紘一元自民党幹事長が死去しました。

リベラリストであること
(写真引用元:http://news.biglobe.ne.jp/domestic/0910/san_160910_7548961876.html

加藤さんと言えば、自民党の中でも保守本流と言われた「宏池会」で若くして頭角を現すと、”政界のプリンス”と呼ばれ、1990年代後半にはリベラル派の代表格として「自社さ政権」の屋台骨を支え、橋本→小渕に続く総理大臣の大本命とみられていました。当時の日本は、バブル経済が崩壊し、のちに”失われた20年”と呼ばれる「長期停滞」のとば口に立っていて、田中角栄以降続いた公共事業重視の「経世会」政治が限界を迎えていました。経世会の担当記者だった僕は、加藤さんであれば、アジアの融和を重視する”ハト派”の安全保障政策を堅持しつつ、低成長時代に即した経済政策や分配政策を打ち出すのではないかと期待を寄せていました。ところが、経世会の影響力が及ぶことを嫌い、小渕総理大臣が再選確実の総裁選に立候補することに固執した結果、小渕さんから徹底的に冷遇され、完全な非主流派に追いやられます。それが伏線となって、小渕さんの死後、森内閣の倒閣に突き進んだ加藤さんは、経世会で最大の理解者だった野中さんと、YKKと呼ばれて盟友関係にあった小泉さんに動きを封じ込まれ、政治生命を失いました。これが、世に言う「加藤の乱」です。

リベラリストであること

YKKのもう1人の盟友、山崎拓さんが、「加藤の乱」の最後の顛末を克明に書き記しています。加藤さんと山崎さんは、森内閣の不信任決議案に2人だけで賛成して討ち死にしようと、ハイヤーで国会議事堂に向かったが、国会が近づいたら加藤さんが「やっぱり帰ろう」と言い出したこと、その直後にある人物から「早く行かないと政治生命を失うぞ」と発破をかけられて、再び国会に向かったこと、ところが国会に近づくと、また加藤さんの心が折れてホテルに引き返したこと、そして加藤さんが三度、「拓さん行こう」と言い出して1人でホテルを出たけど、案の定すぐに戻ってきたこと。一度ならず三度も逡巡して、結局は腰砕けに終わったー加藤さんという政治家、リベラル派の政治家の限界を浮き彫りにするエピソードだと思います。それでも、加藤さんは、個人の自由と社会の多様性を重んじ、民衆の利益のために経済の安定を目指す「リベラリスト」として、いまの時代に稀有な政治家でした。

リベラリストであること
(写真引用元:http://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2005/08/08kaiken.html

加藤さんと対照的に、政治の冷厳さを体現して見せたのが、小泉さんです。「加藤の乱」の直後、山崎さんの誕生日パーティーに乗り込むと、「YKKは友情と打算の二重奏です」と言い放ちます。この言葉には、「お前らは失敗したんだから、今度は俺を応援しろ」という意味が込められていたと、山崎さんは振り返ります。自分が失敗させておいてこう言えるのは、並みの神経ではありません。そして、小泉さんは、「加藤の乱」を踏み台にして総理大臣の座に就くと、自らの元に権力を集中して「経世会」政治をぶっ壊し、日本の政治を内政・外交ともに大きく転換しました。

リベラリストであること

政治記者の仕事に終止符を打ち、松本で政治家を目指す僕にとって、「リベラリスト」で あることは、何よりも大切にしなければならない立場だと考えています。日本で「リベラリスト」 と言えば、真っ先に頭に浮かぶ人物は、戦前は経済ジャーナリストとして、戦後は政治家として、 理想的な現実主義者であろうとした石橋湛山です。その湛山は、経済発展の観点から植民地放棄 を主張した「小日本主義」を唱えるとともに、政治はできるだけ地方分権でなければならないと して「分権主義」を掲げていました。伝統的に自由な気風を重んじてきた松本で、個人の創意を 引き出して地域経済を再活性させ、人口減少時代に生きる市民の生活を向上させていく。そのた めの研鑽を積んでいきます。

積み重ねた時間と対話

ジセダイトーク

松本で新しいことにチャレンジするキーパーソンをゲストに迎え
松本のいまと未来を語ります。
臥雲が大切にする、世代を越えた多事争論。