どれだけの人が集まったのだろう。会が始まる30分前に会場となった京都駅に直結するホテルに到着すると、メインの大ホールはすでに一杯で入れず、その外側に設けられたスペースの一席に腰を下ろした。あとで顔を合わせたNHK時代の後輩は、さらに上のフロアでモニターを見ていたということだった。
今年1月に野中広務元官房長官が92歳で亡くなってから3か月。ご遺族の意向で当初は大々的な葬儀などは行われないとされていたが、自民党・土地改良事業団体連合会・野中家が合同で主催する形で「お別れの会」が執り行われた。実行委員長は、野中さんの薫陶を受けた自民党の二階幹事長。野中さんが逝去した直後は一切コメントしなかった安倍総理大臣も、参列して追悼の辞を述べた。政敵として鋭く対立していた小沢一郎氏は、全盛期と変わらぬ背筋を伸ばした姿勢で深々と一礼した。献花に訪れた大勢の政治家の中で、最も長く手を合わせていたのは、石破茂氏だったように見えた。
会場のホテルが入っている京都駅の駅ビルは、野中さんにとって格別思い入れの強い建物である。戦後すぐ旧国鉄で働いた野中さんは、自民党の幹事長代理として中央政界で重きをなしてきた頃、地元の京都駅を古都にふさわしい一大ターミナルに刷新することと、京都駅に停車しない「のぞみ」を1編成も走られせないことに、力を傾けていた。巨大な駅ビルの空間は、周囲の景観に合わない、建物が高すぎて街が分断される、などと景観論争を巻き起こし、今も賛否が分かれるとも聞くが、「のぞみ」が必ず京都駅に停まることに誰も疑問を挟まない事実と合わせ、観光都市・京都の賑わいと繁栄を支える一助となっていることに、異論はないだろうと思う。
式典の話に戻る。会の半ばに、野中さんの在りし日の姿をまとめた映像が流された。モノクロ写真の少年時代、30代半ばの町長時代、57歳で衆議院議員に初当選した姿、小渕総理大臣と並んで歩いている官房長官時代の表情、壇上で演説しているときの力強い口調と声音。途中から不覚にも涙が止まらなかった。亡くなられて随分時間が経ったのに、なぜだろうと思った。政界を引退してまだお元気だった頃に、もっともっと経験談を聞きに行けば良かったなあと悔やまれた。
同じ京都の政治家として謝辞を述べた伊吹元衆議院議長は、政治家・野中広務を「情の強い(こわい)政治家だった」と評した。同時に、野中さんの人間的な魅力をこう形容した。「恥ずかしそうな、しかし嬉しそうな、あの笑顔が忘れられない」。その通りだった。たまたま近くに秘書がいなかった駅構内で、僕ら番記者にちょっとした手土産を持たせようとして、自分でキオスクに入って買い物をしていたときも、そんな表情をしていたことを憶い出す。
最愛の娘の多恵子さんは、生前の野中さんについて、「自ら運命を切り拓き、長く孤独な道のりを歩いてきたお父さん」と表現した。献花を終えて遺影に手を合わせた後、帰り際に多恵子さんと初めてお会いし、挨拶をさせていただいた。遺族の方々が並んでいる場所から一歩僕の方に踏み出して、笑顔で挨拶を返していただいた。野中さんの顔がダブって見えた。本当にありがとうございました。故郷の松本で、野中さんに負けない仕事をしていきたいと思います。
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