1963年生まれの53歳。僕らの世代のトップを走っていた、走っていると思っていた、平尾誠二が亡くなりました。高度経済成長の時代が終わり、日本が新たな目標を探して迷走を始めた時代に、ラガーマンとして颯爽と現れて以降、いつも僕らの2、3歩先を行く存在でした。
*写真引用:asahi.com 朝日新聞
類い稀なラグビーセンスで、高校・大学とチームを日本一に導き、若くして日本を代表する選手となっていた平尾誠二を初めて見たのは、渋谷のスクランブル交差点近くの雑踏でした。モデルのような女性と静かに歩いている姿を目にして、これが平尾か、と眩しく感じると同時に、自分の中に何か力が湧いてきたのを憶えています。
当時、平尾がラグビーを通じて体現していたのは、「自由奔放なカッコよさ」だったと思います。 のちのインタビューで、平尾はこう語っています。
「スポーツの原点は、近所の子どもたちが集まってやっていた三角ベースのノリでしょ。自分の意思で始めて、日が暮れてボールが見えなくなるまで夢中でやって、母親が『晩御飯だよ』と呼びに来ると解散。それが中学生になってクラブに入ると、球拾いばかりで野球をやらせてもらえず、そのうえ坊主にしろと管理される。僕らより前の世代は当たり前だと思っていたかもしれないけど、『おかしいぞ、何でこんなことするの』と思うようになった。僕は『こんなのはスポーツの本来の姿じゃない。もっと楽しいもんや』と感じてました」(取材・宮崎俊哉氏)。
政治の季節がとっくに過ぎ去った大学で、野球に明け暮れていた僕は、ラグビーの王道を歩みながら、どこか反骨の匂いを漂わせる、平尾の自由奔放さに憧れました。平尾の口ひげは、バブルの先が見通せない時代に、固定観念にとらわれず、遊び心を失わず、面白いことや新しいことに挑戦するんだという矜持の象徴のように見えました。
現役を退いてからの平尾は、若くして指導者の地位に就き、「先見性と大局観」を発揮しました。 34歳で日本代表の監督に就任すると、今でこそ当たり前となった外国人選手の起用に積極的に取り組み、ニュージーランド出身のマコーミックを外国人初のキャプテンに指名しました。他の競技から適性のある選手を発掘して育成する「平尾プロジェクト」や、ラグビークラブの運営を中心に地域スポーツの普及を目指すNPO法人「SCIX」を、今から15年以上前に立ち上げました。
しかし、監督を務めた1999年のW杯は3戦全敗。翌年、強化方針をめぐってラグビー協会幹部と対立して監督を辞任すると、ラグビー界の第一線から遠ざかりました。その後、日本のラグビーは、サッカーと入れ替わって凋落の一途を辿り、日本の政治や経済と軌を一にするように、長い冬の時代を経験することになります。
W杯2015で日本代表が魅せた快進撃を振り返ると、平尾誠二の改革は「早すぎた改革」だった、日本人は平尾の状況判断とスピードに追いつけていなかったんだなあ、という思いに駆られます。 平尾の訃報に接するまで、平尾の存在は、また何年かしたら監督に戻ってくるんだろう、と時折思い出す程度になっていました。去年3月に出版された著書『求心力』を、きのう一気に読みました。「リーダーには度量と美学が必要である」。随所に、平尾が培ったキャプテンシーの強さと大きさを痛感しました。ラグビー界やスポーツ界にとどまらず、傑出したリーダーになったはずです。ラグビーの本質は、「俺はここまでしか行けないけど、あとは頼むぞ」という点にあると言われます。ボールを持って好きなところへ走っていった平尾誠二に、同世代の僕らが追いついてパスを受け継がなければいけない。今の強い思いです。
尊敬の念を込めて、敬称は略させていただきました。
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