小平奈緒が体現するもの

小平奈緒は、信州の人だなあと思います。羽生結弦の外連味とも、カーリング女子の開放感とも、スノーボーダーの奔放さとも、無縁に見えます。「まじめで真剣で芯の強い人」。長く支援の手を差し伸べてきた相澤病院の相澤孝夫CEOが初対面のときに抱いた印象は、僕らがピョンチャンオリンピックで目の当たりにした彼女の振る舞いと見事に重なっています。

小平奈緒が体現するもの

八ヶ岳山麓にある長野県茅野市で生まれた小平奈緒は、中学生になると自宅から50キロ離れた伊那地方のスケートクラブに入り、中学・高校時代には同世代で全国トップとなる選手に成長。スピードスケート界では、地元の名門・三協精機(現・日本電算サンキョー)や、橋本聖子・岡崎朋美らが所属した富士急行へ進むのが、トップ選手の常識的なルートでしたが、彼女が選んだ進路は、信州大学教育学部でした。

◇長野オリンピックで金メダルを取った清水宏保を動作解析の視点からサポートした結城匡啓コーチ(現・信州大学教授)の存在をテレビ番組で知り、その理論を学べる環境を第一に求めたこと、◇将来、体育教師になる道も考えていたことが、選択の理由だったとされています。

小平自身が「人生で最大の決断だった」と振り返る選択は、本人のまじめな動機と裏腹に、いな動機がまじめであったが故に、スケート界の「体制派」に快く受け止められなかったであろうことは、想像に難くありません。大学の4年間で、卒業に必要な単位を取得しながら、日本選手権で短中距離のタイトルを獲得した異色のトップスケーターに対し、リーマンショックと重なる時期だったとは言え、競技者として迎え入れようとする実業団チームはありませんでした。

小平奈緒が体現するもの

所属先が見つからずスケート浪人になりかけた小平奈緒を救ったのは、スケートとは全く所縁のない、松本市の民間病院でした。2009年に相澤病院のスタッフとして採用され、長期出張の扱いで競技に打ち込んだ彼女は、その年の全日本選手権で500m・1000m・1500m の3冠に輝きました。当時ニュースを観て、日本を代表するスケート選手の所属先が、どうして松本の病院なんだ、と驚いたことを憶えています。

結城コーチの依頼を受けて小平奈緒の支援を引き受けた相澤氏は、「長野県の人が長野県のコーチの下でスケートを極めたいと声を掛けてくれた。応えないのは、義に反すると思った」と話しています。彼女の真剣さを真正面から受け止めてくれる人物がいたことは、本当に幸いでした。さもなければ、競技生活に終止符が打たれていたかもしれません。「苦しいときに、成績よりも私の夢を応援してくれたのが、相澤病院です」と語る彼女の言葉に、出会いの有難さを感じます。

小平奈緒が体現するもの

その後、2回のオリンピックに出場し、オランダに2年間留学した小平奈緒は、30歳となった去年、とてつもない成績を残しました。500mは、世界選手権もワールドカップも連戦連勝。あまりに急激で前例のない進化に、その凄さをスポーツ界もメディアも十分に消化できないまま迎えたのが、ピョンチャンオリンピックではなかったかと思います。

どちらかと言うと地味で穏やかな雰囲気を醸し出す彼女が、滑走中に見せた怖さを感じるほどの表情と、36秒台の記録を確認した直後の堂々たるガッツポーズ。周囲の喧騒に動じない孤高の人だけに備わる芯の強さが、剥き出しになったように見えました。友人のイ・サンファに近寄って肩を抱いたことも、アスリートとして達観した彼女にとっては、衒いも躊躇もない、ごく自然な振る舞いだったんだろうと思います。

小平奈緒が体現するもの

信州・松本に暮らす一人として、地元で師と仰ぐ指導者と出会い、周りの人たちに支えられながら、地方に根を張って世界を目指し、旧弊や大勢に囚われることなく世界の頂点を極めた姿には、誇りと希望を感じます。願わくば小平奈緒という人には、これまで通り世間の喧騒と一線を画し、真摯に納得が行くまでスケートに打ち込み、いつかは信州で子どもたちにスケートの楽しさを教えることを仕事にしてもらいたい。そうなったら素晴らしいと思います。


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