野中さんの一周忌の京都は、雪が降ったり止んだりの極寒の1日でした。それでも、京都駅前や四条通りは、世界中から訪れた観光客と若い世代の日本人で賑わい、在りし日の野中さんが抱き続けた京都への想いが偲ばれました。
平安神宮や繁華街を見下ろす東山の佛光寺大廟にある、野中さんのお墓を訪ねるのは、初めてでした。かなりの数の階段を上って到着した墓前には、すでにいっぱいの花が供えられていました。雪も止んで青空が広がり、ロウソクにマッチで火を付けようとしましたが、思った以上に風が強くなかなか火が付きません。「どうした、なんかあったんか」。生前、約束の時間に遅れて、遠回しに咎められた場面を思い出しました。目を閉じて手を合わせ、何を報告すればいいかと頭を巡らせましたが、官房長官時代の印象深い表情や仕草、言葉の数々を呼び起こすことで、時間が過ぎていきました。
野中さんは、自ら「闘う」ことを標榜した政治家でした。言葉で「闘う」ことに誰よりも拘った政治家だったと思います。時に非難を顧みず、相手の急所を突く言葉で舌鋒鋭く斬り込みました。ただ、相手の質問を逸らしたり無視したりすることは、滅多にありませんでした。なぜなら、野中さんの「闘い」は、立場や意見が違っても一緒にやっていくための「調整」を目的に据えていたからです。
野中官房長官の記者会見は、緊張感と活気がありました。野中番の記者として、最前列中央の席に座り、真っ先に質問の口火を切り、二の矢三の矢の質問を投げかけ、野中さんの答弁で事態を前に進める何かを引き出せないかと、自分が掻き集めた情報と論理を総動員しました。森羅万象にわたる問題について、文字通り「多事争論」を実践する政治空間でした。
京都駅から電車で40分程のところに、野中さんが生まれ育った旧園部町があります。一周忌の追悼講演で、門下生だった古賀誠元自民党幹事長は、「保守とは何ぞや」と聞かれ、野中さん自ら、「保守とは、我が国の平和である。二度と戦争を起こさないこと、格差のない中間層が厚い国民を作り出すことだ」と語っていた問答を披瀝しました。
講演が終わり、賑わいとは程遠い山あいの町を歩きながら、25歳で町議会議員、32歳で町長、41歳で府議会議員、52歳で副知事、57歳で衆議院議員、72歳で官房長官と、議会と行政の政治経験を代わる代わる重ねながら地方から中央へ進んでいった自分の足跡を、野中さんが常々「筍の皮を一枚一枚剥くように」と表現していたことを思い起こしました。
思い出と共に京都を歩いて僕なりに行き着いた、野中政治の真髄は、「論争」と「調整」です。そして、これこそが、いまの日本の政治に最も欠けているものだと思います。それは、松本においても、社会の様々な分野においても、同じです。
奇しくも、国民的グループ『嵐』のメンバーが2020年末で活動を休止すると発表した記者会見で、「みんなの思いが一致して、どこに着地するか、何回も話し合いを続けてきました」と語っていることを耳にしました。好感を覚えました。
「多事争論」の精神で「論争」と「調整」を厭わず、すべての世代の共感を得て、先駆的な未来構想を松本で実現していく。野中さんの一周忌に、改めて胸に刻んだ想いです。
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