「忖度」という言葉が、あらゆるところで飛び交っています。「ソンタク」という言葉を、耳にしない日はありません。森友学園の問題も、行き着くところ忖度をどう考えるのかということに焦点が絞られてきたように見えます。そして、その根本が忖度にあるからこそ、森友問題は、これほどまでに大きな波紋を日本社会に広げているのだと思います。
他人の気持ちを推し量ること。忖度の意味です。本来は、必ずしも否定的な言葉ではありません。籠池理事長から名指しで非難された大阪府の松井知事が「安倍首相は忖度があったという事実を認めるべきだ」と述べたのも、忖度=不正ではないという意識が強く働いているのだと思います。では、日本人にとって全くフラットな言葉かと言うと、そうではありません。だからこそ、安倍総理大臣も財務省幹部も、「忖度するはずがない」「忖度はなかった」との一線を頑なまでに守ろうとしています。忖度を認めることは、財務省幹部にとって、刑事責任はともかく政治責任を、安倍総理大臣にとっては、「私や家内、事務所が関係していたら、総理大臣だけでなく議員も辞める」とした発言の責任を、問われることにつながるリスクを孕んでいます。
本来、政治的な権限を持っていない安倍昭恵さんの存在が、これほどクローズアップされるのも、忖度という日本社会に染み渡った風習が、あまりにわかりやすく象徴的に現れたからです。安倍総理大臣夫人という肩書きは、本人の意識とは別に、さまざまな場面で相当な力を発揮したことが想像できます。英紙フィナンシャルタイムスは、「Sontakuがつなぐ日本のスキャンダル」と題する記事で、「忖度は、与えられている命令を先取りし、穏便に従うことを指す。政府・民間部門でいろいろな形で普及していることは、すべての人が本能的に知っている」と指摘しています。
実は、僕にとって「忖度」という言葉は、3年ほど前から頻繁に使うようになった言葉です。当時、NHKの会長となった籾井勝人氏は、就任記者会見で、「政府が右と言っているのに、我々が左と言うわけにはいかない」と述べ、紆余曲折はあったものの、局内には徐々に表現し難い空気が広がっていきました。トップから明示的な命令が降りてくるわけではなく、何が良く何が悪いかの原則が検討されることもなく、個別の提案や企画にストップがかかることが増えていきました。その積み重ねが一種のタブーを作り、それを表立って口にすることが憚られるようになり、こうした空気と折り合いが良いか悪いかが、組織を左右する人事に反映されていきました。忖度は、静かに見えにくい形で広がるがゆえに、行き過ぎても押し留めるのは容易ではないことを実感しました。
安倍政権発足から半年余り経った2013年の夏に大きな波紋を呼んだ、麻生副総理の発言を憶えているでしょうか。「ヒトラーは、ワイマール憲法という当時ヨーロッパで最も進んだ憲法下にあって出てきた。(中略)ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口、学んだらどうかね。わーわー騒がないで」。すぐに撤回されましたが、今になってみると、忖度の浸透力を見越していたかのような極めて示唆的な発言だったと思います。何事も行き過ぎは良くありません。忖度が行き過ぎると、個人の責任や主体性が薄まり、無責任体制につながっていきます。中央政府でも、地方自治体でも、大企業でも、町会組織でも、同様です。忖度のスパイラルに歯止めをかける。自戒も込めて、いまの日本に必要なことだと考えます。
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